昭和44年3月6日      夜の御理解



 只今、御祈念につかろうとする前に、公子さんがお知らせを頂いて、お夢のお知らせを頂いておる事をお届けしております。
 ●桜の花が植えてある。その根元に菊の花が植えてあるという花。こりゃ氏子の花が、いわゆるこうしおれて、またこう少し散り掛かっておるといったような、そのお知らせだったと。
 私は、丁度今晩が企画委員の方達の集いをし、まぁ菊栄会の方達が中心になっておる事だし、まぁその事を、やはりまぁ、こう菊栄会の方達だけということじゃないけれども、えー、合楽の信心の、まぁシンボルとまで言われておる菊の花である。
 えー、確かに合楽の信心は、あー、梅の花の信心より、えー、桜の花の信心より、梅の花の信心をせよと。言うておられますけれども、その性格的にですね、合楽の信心の性格的に、なところがあるのは、菊の、梅の花よりも、桜の花の方が多いということである。
 (農こう?)である、ですから、(あやまも?)するとその桜の花がいわゆる辛抱が出来ていないから、やはり早く散ると言われるように、その桜の花のような信心。けれどもお互いが受けたいのは、桜の花のように華やかなおかげである。
 だからその、本当に桜の花のようなおかげの、おかげを華やかなおかげを頂くためには、何というても、梅の花のような信心が欠けておるものが、特になされていかなければならんと同時に、菊の花の、いわゆる菊と、喜びですね。いわゆるし、合楽的、いわゆる信心の喜びとこういう。
 そういう信心の喜びが、その桜の花を支えるので。桜の花の信心を、支えるものは菊の花の信心だ。ね、それでまた支えるものは、私は梅の花の信心だという風に、まぁ思うです。
 合楽的信心の喜び、それは何というても、生き生きとした信心の楽しみにあると思うんです。ね、お参りをすることの楽しみです。そのお参りをする事の楽しみがね、あの、欠けたらもう合楽の信心は、もう、いわゆる大変いわば危険なことになります。
 お参りをするということが、楽しい。それは喜びにはなってはこんでもです、そこがあれば、その菊、その信心で支えることが出来るですね。だから、そういう時もある。けどもそれをあの、支えきらないものは、結局梅の花のような信心が、私共の信心にかけておるからである。
 今日麻生さんが、あのあーして毎朝参ってきとりますが、(おい?)今朝方お夢を頂いたというて、右の方の御結界にお届けをして、(私はそれを、愛子さん?)に、様々なお伺い事があったら、そのお伺い事は、私がおればなんだけども、時にはやっぱり自分でお伺いをしてみて、稽古しにゃいけんと。こういう風にいうとったもんですから、それで、その詳しく聞いて、自分でお伺いするつもりで、その後になってからここに持ってきますから、そげなことしてあんた、信者さんがあんた(火急?)なお知らせを頂いとったらどうするか。
 そげなことをあんたが稽古に使うては大変じゃない。(私が?)例えばならそん親先生お伺いして下さい。どういうことかも分からんから。でなかったら直ぐお伺いをするというように、何かも分からんのにそんなことでどうあんた、あの、ね、お伺いの稽古をせろというのは、そういうことじゃなかったんです。というてまぁ、言うた事でしたけれど。
 ★その内容がです、そういわなければおられないようなことだったからなんです。ね、まぁいうならば、大変な、まぁここの災難が、もうなんてと言うかね、まぁ言うならば、この霊柩車と、こう、がもう側に来ておるといったようなお知らせを頂いておったと。
 ね、いうようなことを私、同時に頂いておることが、★次にあの、きゅうりとね、大根をこう、大根卸しを卸しておる。それをこのおとしたところが、安東繁子さんがそれを踏みねじったというお知らせであったとこう。
 ですからその、大根といや信心に苦労がないということにお知らせを頂く。ね、只、何というかね、いうなら苦労なしに信心といったような感じ。きゅうりというのは、お徳とこういう。ね、ですからあのこれは、私共の信心でいうならば、確かにあの、自分の身を卸すような意味合いにおいての信心が確かに出来ている、あの人は。
 ね、けどもそれはどこまでも大根、そのまぁ本当にきび、厳しいものではない。いわば信心の性質は非常に良いということなんである。ね、ならこれでは、安東と言う事を安心というということである。繁子ということは繁盛ということである。
 ね、いわゆる安心のおかげを頂く、ようするに子孫繁盛のおかげを頂くというような信心には、まだまだ程遠いのだと。ね、だから本気で一つ、徳(添えの?)信心をしなければならないが、ね、まさかの時にはね、まだまだ自分の信心で。今日はそのことを、私はお知らせを、御神意をお伺いましたらね。
 あの高いところにおります、そういう火事かなんかがある時にですね、長いはしごでもありゃ助かられるんだけれども、そのはしごがないために、(とうとうよりあげ?)死んだといったような例がありましょう。そのはしごがね、その(きげんひとつもらうま?)であるけれど、少し継ぎ足してもらわなければ、はしごが足りない。
 いわゆるそこんところを、まぁ私の祈りとでもいうか、お取次ぎの働きとでも言うか、そういう働きを受けなければならないような(火急?)な事であるから、皆さんそのことは直ぐお願いしとければいけない。直ぐお取り次ぎ頂いてお願いをしなければ、いうならば、あんそれ危ないところに現在おるんだというお知らせを本人が受けておったと。
 というようなことの中からです、なら(感じおって?)今日の御理解とあわせ頂くなら、皆さんの信心こそ、まぁいうなら、大根ときゅうりを卸しておるようなものではなかろうか。安心のおかげを頂くとか、ね、それが子孫繁盛につながるというような信心にはまだ、私は遠いと。
 ね、ならそこんところを、あの、頂いていくために、一つお互いの頂いておる桜の花的、一つの根性とでもいうかね、それを例えば菊の花の信心によって支える。ね、その桜の花的な、それをカバーするものは、何というても梅の花の信心。これが私共に欠けておるんだという自覚を何時も持っておかんと、その辛抱が出来ない。
 いわゆる信心辛抱梅の花という信心を持って支え、または合楽的信心の喜びならば、合楽的信心の喜びというのは、対外熱心に参ってくる人は、ほとんどお参りさせて頂けば喜びに触れることが出来る。
 いうならば、今日どげな御理解を頂くであろうかと、楽しんでお参りが出来るものが、合楽にはある。
 そういうものが、楽しみであるということが、私は菊の花的な信心だ。そういう信心でカバーする、梅の花でカバーさせてもらうところにです、合楽の場合はその替わりに例えば、他所では真似の出来ない、桜の花の咲いたような華やかなおかげが受けられるということであるという風に、まぁ思うたんです。
 えー、今日まぁ、それも今お届けがあったんですけれども、善導寺の原さんが、今日久富勇さんのところに、何時もお野菜頂くばっかりだから、今日は何かかぶ切りかなんかがあるので、といわれとったから、今日まぁ加勢にもなるまいけれどもお手伝いさせてもらおうと、思うて今日いかれた。
 もうところがすでにおられなくて、畑、出ておられた。まぁ(ぜひはして?)頂いたところが丁度、「正教先生?」「おさん?」達夫婦もご一緒であった。もう天気は良し、仕事はあの(ふられじ?)のことですから出来ませんけれども、本当に信心の手厚い人達と一緒に、あのそれこそ対中を相手に、それこそどろと取り組んでの、いわば仕事にお手伝いさせて頂いて、もう大変なおかげを頂きましたと。いうておられる。
 それは、なら(どうような?)人達が、そのことに、そのような(かんりき?)を持って毎日御用が出来ておられるんであろうか。あー、今日もまたかぶ切り、今日もまた(ごんぼ?)掘りだというようなことではなかろうか。
 ね、原さんがたまたま、原さんの欠けておられるものはどろのような信心とこういう、ね。そのどろのような信心な方達の中に入って、しかもその本気、本当にどろに取り組ませて頂くということが、大変な有難い、しかも楽しいものであったといわれる、そういうその生生しいというかね、新鮮なというか、土に取り組むその態度というものがね、そりゃ仕事は別として、(どういうような?)方達のように(どう事があれば?)というば、いうなら、お百姓をなさっておられる方達がです、そのことに対して原さんが今日感じられたような楽しさとか、喜びというなものを感じられられたら、素晴らしいことだなぁと私は今日思うた。
 私共には欠けておるものがどろのような信心。ただしどろのような信心に取り組んでおられる方達はです、また今度は、そういう原さんが感じられたようなものに欠けておらるのじゃなかろうか。そこに求められるものは、いわゆる菊の信心。
 信心さらなる。ね、お参りによって、さらな喜びを持って、その御用に取り組ませて頂くというような、信心こそがね、いよいよ麻生さんの頂いておられることから言うなら、ね、安心にも繋がり、子孫繁盛にもつながるようなおかげになるんだという風に思います。どうぞ。今日は・・・(※何か言おうとされるが、切れている)

梶原 佳行